20130502

Concept design of Nagoya Grampus in 2017










遅くなりましたが、卒業制作をアップします。


みんないつもより怖い顔してて緊張した。なにより、他の人のプレゼンがけっこう長くしっかりやってて、3分適度の文章しか考えてなかった僕は余計に焦った。


そいいうときって、決まって余計なこと言っちゃうよね。









こちらは展示のようす。写真はりゅうくんが撮ってくれました。ナイスな写真をありがとう。


そして、遠い所わざわざ足を運んでくれた方々、本当にありがとうございます。中学や高校の恩師をはじめ、僕の友人もほんとに多く足を運んでくれました。


会期中はほとんどみなさんに会ってお話しして、バタバタして一人ひとりとしっかり会話出来なくて、ほんと残念だった。毎日、夜もみんなが飲み会開いてくれて、改めてみんなに支えられてることに気付けたかな。


なにより、卒業制作を手伝ってくれたたっちーやかたゆうにはとても感謝してる。


このタイミングでしっかりと関われてよかった。なにより楽しかったしね。

あと、せつこ、りゅうくんにもありがとう。あ、あと大石とひちょりにも。笑








会場にも展示されていましたが、コンセプトの文章も一緒にアップしておきます。


ちと長いですが、冒頭だけでもちょろっと読んでみて下さい。









私は大学に入ってすぐに様々な国をバックパッカーをしながら旅をした。新興国に入国してすぐに現れたのは迫力のある空港の建築だった。その国に対する見方は一瞬で変わった。国のデザインの力や、技術力の高さを見せつけられた。何より、歓迎されているようで、少しその国が好きになった。日本のものづくりは、まだ、そういったものに対して消極的であり、タワーやスタジアムのような大規模建築にもある種、後進国的な考え方をしている。今日におけるデザインは、もはや美術大学だけのものでは無くなってきている。だからこそ、私は美術大学のデザイン科として建築の持つ純粋なエネルギーや、人を引きつける圧倒的な魅力をなによりも大切にしたいと思っている。社会性や、ロジカルなデザインも求められているが、それは今日においては当たり前の考えで、寧ろフラット化する社会に対してのアンチテーゼを発信し、もっと情緒的な部分で、建築やデザインは夢を描いて、単純に人を感動させたり、人を笑顔にしたり、街に希望や活力を生み出したりできると信じている。デザインはもっと夢のあっていいものだと思う。以上のことを、美術大学を卒業する上で一番芯に持っておきたいと思っている。







日本におけるサッカー人気は上昇の一途をたどっている。Jリーグは今年度、20周年を迎えたが、人気のほとんどが日本代表への応援であり、クラブチームに対しては、観戦者数は伸び悩んでいるのが現状である。名古屋グランパスも例外ではなく、1995年には観客動員数558,032人だったのに対し、2012年度は291,632人と半数近く減少していることが分かる。サッカーは全世界で行われているスポーツであり、海外におけるサッカーの集客能力は爆発的に多い。特に海外では、地元のクラブチームを応援する習慣があり、代表よりもクラブを応援する。週一回の試合に地元の人は集まり8万のスタジアムを毎回満席にする。酒場では人が集まり、そこには、街の活気と、人と人との関わりがあるのではないか。そういった光景を日本にも作りたいと考えた。名古屋には日本一のフットサルクラブもあり、サッカーを軸とした、長期的なビジョンで地元クラブと都市とを密着させていき、魅力的で独創的な街作りを考える。今回は、その第一フェーズとして、Jリーグ25周年を記念したスタジアムの設計と周辺のランドスケープデザインの提案をする。









日本の都市は高度成長期を経て拡大を続け、政策的にも郊外の住宅地開発が進められてきたが、大店法の改正などもあり1990年代より中心市街地の空洞化現象(ドーナツ化現象)が各地で顕著に見られるようになった。特に鉄道網の不十分な地方都市においては自動車中心社会(車社会)に転換し、巨大ショッピングセンターが造られ、幹線道路沿線には全国チェーンを中心としてロードサイド型店舗やファミリーレストラン、ファーストフード店などの飲食店が出店し、競争を繰り広げるようになった。また商業施設のみならず公共施設や大病院も広い敷地を求めて郊外に移転する傾向が見られる。郊外化の進展は、既存の市街地の衰退以外にも多くの問題点を抱えている。具体的に、自動車中心の社会は移動手段のない高齢者など「交通弱者」にとって不便である。無秩序な郊外開発は持続可能性、自然保護、環境保護の点からも問題である。際限のない郊外化、市街の希薄化は、道路、上下水道などの公共投資の効率を悪化させ、膨大な維持コストが発生するなど財政負担が大きい等の問題が挙げられる。こうした課題に対して、都市郊外化・スプロール化を抑制し、市街地のスケールを小さく保ち、歩いてゆける範囲を生活圏と捉え、コミュニティの再生や住みやすいまちづくりを目指そうとするのがコンパクトシティの発想である。コンパクトシティとは、都市的土地利用の郊外への拡大を抑制すると同時に中心市街地の活性化が図られた、生活に必要な諸機能が近接した効率的で持続可能な都市、もしくはそれを目指した都市政策のことである。街の中心にランドマーク的建築が人を集め、街に活気を取り戻させる。車移動ではなければ、エネルギーは最小限に抑えられ、サポーターはお酒を飲んで観戦することも出来る。試合後は周辺の酒場には人が集まり、人と人とのコミュニケーションが発生する。スポーツと地元クラブというツールによって、地元愛、地域活性化を生みつつ、コミュニティを形成出来るのがサッカーというツールであり、スタジアムをデザインすることとなった最大の理由である。今回の私のプロジェクトは、都市問題と地域の活性化を同時に解決する、スタジアムの設計と周辺のランドスケープデザインの提案である。








僕は芸術大学に入学し、学士をもらい、卒業しました。


ここで4年間学んだことを一番言いたかった。美術大学の向かわなければならないところへ、作品を乗せて魅せたかった。


芸術大学の存在意義はどこにある?

薄れてゆく美大の存在感は学生が一番感じているのではないか。


教育のレベルもそうなのかもしれないけど、指針を持つことが何より大切なことでしょう。それは大学や国の責任です。どんな人材を育てるのか、10年後にどんな人材を輩出していくのか。そこに疑問を感じていた。何より危機感を覚えていた。

世の中のスピード感を感じてほしい。

造形の時代では無くなってきているだろう。

iPhoneやInstagram、AirbnbやBluebottlecoffeeは何をデザインしている?
AppleやFacebookやAmazonが、一体何をデザインしているのか、理解しているのか?




だからこそ、卒業制作では4年間学んできたことを、小手先の技術じゃなく哲学や美学に変えて吐き出した。だからこそ思いっきりやりきれた。


しかし、評価のためにやってるのではないけど、審査で雨仕舞や言語について言われたのは正直理解不能だった。


だったら4年間それを言って欲しかった。それについては、学生は中指立てなきゃいけないでしょう。少なくとも僕は立てていきたい。









しかし、反対にこの大学は情緒的なところに重きをおいて、美しさとか、人の心と向き合ったデザインをしていこうとする態度を少なくとも感じてたし、僕はその哲学を実際に学んだ。


だから尚更あの場で、そんな視点の話しか出来なかったのはなにより悲しかった。


僕は色や形のデザインをやっているわけではないのだから。

僕のお世話になった先生は(パイショットでお世話になった先生も含め)、それが伝わっていたと思う。


そういった意味では、僕は環境デザインをやっていてよかったなと改めて思った。






僕の恩師の先生が、僕に言ってくれた言葉があります。



「人は、多くのものを捨て去った時に、
また別の多くのものを得るものです。比喩ではなく、本当に。」



なるほど、確かにそれは間違いではないみたい。







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